戦争は経済に負ける

戦争は、経済に負ける

経済は、戦争よりむつかしい。戦争で外国を占領して、日本語を押しつけるのは簡単。外国に商品を売るのは、相手の国のことを理解しなければならなおので、戦争より高度な知識が必要。(斎藤一人)

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2013/カルチュラル・ニュース3年間の震災取材-季刊「海外日系人」が紹介

2013年4月、カルチュラル・ニュース主催の被災地体験ツアーは、気仙沼市の地福寺を訪れました。(今田英一さん写真提供)
2013年4月、カルチュラル・ニュース主催の被災地体験ツアーは、気仙沼市の地福寺を訪れました。(今田英一さん写真提供)

東日本大震災直後から被災地の取材続けるロサンゼルスの日系英字紙

(この文章は、季刊「海外日系人」2013年10月発行に寄稿したものです)

 

「カルチュラル・ニュース」 編集長・発行人東 繁春

 

小さな英字新聞が背負う大きな使命

 「カルチュラル・ニュース」は1981年7月創刊の、ロサンゼルスで発行されている月刊の英字新聞です。ロサンゼルスで、体験することができる日本文化イベントを紹介しています。発行部数は5000部で、日系文化センターなど一部無料配布していますが、基本は有料の新聞です。

 編集長と発行人を、わたしが兼務し、紙面製作はプロダクションに外注しており、実際のところ、わたし一人で作っている新聞です。小口の出資をしてくれた協力者が約30人いて、新聞発行会社の「カルチュラル・ニュース社」は、カリフォルニア州で株式会社の登録をしています。

カルチュラル・ニュースは小さな新聞です。この小さな新聞が、東日本大震災の実情をロサンゼルスの読者に知らせるために、震災直後の2011年4月に岩手、宮城、福島県に、2011年11月には福島県立医科大学で開かれた放射線の国際会議に、2012年2月後半に三陸海岸部と、現地への取材を3回行い、そして、ロサンゼルスのひとに直接、震災の大きさを体験してもらうためのツアーを、2012年6月と2013年4月に行っていることを、お知らせしたいと思います。

被災地に行ってこそ分かる真実

 「被災地に出向いて、何か役に立つことをしたいと思いながら、どうしてよいのか、分からない。じゃまになるのではないか。力仕事もできなし、わずかな寄付をしているのだから、それで、よいのではないか」

これは、2012年6月に「カルチュラル・ニュース」が主催した「東北被災地体験ツアー」に参加する前のロサンゼルス在住の半田俊子さんの心配でした。

 その半田俊子さんがツアーに参加したあとの感想文で、「悩みが杞憂であることが分かった」と書いているのです。「現地の人は1年以上(当時)たった今、全国の人に忘れられたくない、被災地を一人でも、多く訪問して、実際に見てほしい、話を聞いてほしい、という思いにあふれていた」と半田俊子さんは語っています。

 2013年4月にはカルチュラル・ニュース主催の第2回目の「東北被災地体験ツアー」をやりました。このときの参加者、ロサンゼルスの日系三世のジュン・ヒビノさんは、「震災から2年が経っているので、現地に行っても震災の様子は見るものがないと、思っていたが、津波に被災した地域はほとんど何も建ってなく、驚いた」と、カルチュラル・ニュース2013年6月号への寄稿文に書いてくれました。

震災は人知の理解超える自然の驚異

東日本大震災は、グランドキャニオンに匹敵するくらいの自然現象だと、わたしは考えています。グランドキャニオンの壮大さは、いくら映像や写真でみても実感できません。現地に行ってみないことには、わからない大きな自然の驚異です。

 わたしは、2011年4月16日に、陸前高田市に行ったのですが、津波が残したガレキの平原を見たときには、思考が止まってしまいました。ことばが出てこないのです。目の前に見えるものと頭の中の知識が、まったく結びつかず、知識の歯車が空回りしているのです。

 女川町立病院へは2012年6月に行きました。女川の病院は海に面した高台に立っていました。わたしには、この高台が海面から50メートルくらいの高さにあるように感じられたのですが、実際は20メートルでした。この病院の一階まで津波が押し寄せたと説明されても、わたしは、すぐには理解することはできませんでした。理解を超える話なのです。

“LAコネクション”で情報発信

 2011年3月11日に、東日本大震災が起こったとき、わたしは、ロサンゼルスの広島県人会の事務局長をやっていました。その県人会の会合のとき、県人会メンバーの息子がロサンゼルス・カウンティー(県に相当する行政組織)の消防士で、米国が派遣した国際救援隊メンバーとして大船渡市と釜石市に派遣されていることを知りました。

 この消防士は名前を上原アツシさんといいますが、上原さんは、3月12日から19日まで、岩手県に派遣されていて、広島県人会では3月29日に、上原さんに県人会の会合に来てもらって被災地のようすを聞きました。上原さんは、被災地では一人も救助することができなく、大船渡では、逆に被災者から食料をもらったことが、忘れられないと話していました。

 「カルチュラル・ニュース」はウエブ・サイトを持ち、また、Eメールのニュースレターも、1週間に2、3回は発信しているのですが、2011年3月当時、Eメールの交信の中で、突然、これから被災地に救援物資を持って、東京から出発するというメールが入ってきました。ロサンゼルスでキリスト教団体を主宰している稲葉寛夫さんからでした。

 稲葉さんからは、南相馬市の病院に支援物資を届けた手記と写真が送られてきました。この手記は、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校の日本語学科の主任教授の広田昭子先生に英訳してもらいました。そしてJETプラグラムという英語教師派遣プログラムで仙台に2年間滞在したことのある日系三世から、仙台市内の東北学院大学の2年生の佐藤佐喜子さんが、英文のブログで3月12日から仙台のようすを伝えていることを教えてもらいました。

 こうして、2011年4月のカルチュラル・ニュースは、発行は1週間遅れましたが、稲葉さんの南相馬市の体験記、佐藤さんの英文ブログ、そして消防士・上原さんの紹介記事を掲載しました。4月号のフロントページは、愛媛県新居浜市在住の文化人類学者、バーバラ伊藤さん(アメリカ人)による日本のおにぎり文化を解説する記事を掲載しました。ちょうどタイミングよく、時事通信社からは女川町で炊き出しをする人が、おにぎりをたくさん作っている写真を入手することができました。

注目されたローカル情報

カルチュラル・ニュースはロサンゼルスで体験することができる日本文化イベントの紹介が目的の新聞なのですが、わたしは、2011年3月ほど、ロサンゼルスの人が、そしてアメリカ中の人が日本に注目した時期はないと、判断し、東日本大震災のようすを伝えることが、ロサンゼルスの読者の日本への関心をさらに強くすると考えました。わたしが、発信するEメール・ニュースでは、ロサンゼルスで開催される募金活動の情報が増えていました。そして、このローカル情報は、大手紙ロサンゼルス・タイムズの記者やロサンゼルス地域通信社・シティー・ニューズ・サービスからは、重要な情報源であるから、注目しているという返信メールを受け取りました。

 現場からの発信こそが報道の使命、震災1カ月後に現地取材を敢行

  東日本大震災は、1940年代の戦争での東京大空襲や広島・長崎への原爆投下に匹敵する大惨事だと、わたしは、考えました。自分が生きているこの今に、起こっているできごとなので、報道の仕事にたずさわる者として、これは、自分の目で確かめなければならないと思いました。

 カルチュラル・ニュースは、大組織ではないし、また潤沢な取材費があるわけではないので、ふつうの交通機関を使ってしか、現地に行くことができません。まず、復旧作業が進み、鉄道やバスなどが動きだすタイミングを待って、取材に行こうと考えました。被災地への救援活動をしている稲葉さんに、いっしょに連れて行ってもらえないか、と頼んでみたのですが、そういう余裕はないと、簡単に断られたことも、これは、自分で行くしかない、という気持ちになった理由でした。

 広島県呉で生まれ育ったわたしは、東北地方はまったく未知の土地で、知り合いはいませんでした。ロサンゼルスには30年住んでいるので、カリフォルニア州内のことは、行ったことのない場所でも、ある程度の推測はできるのですが、東北は、わたしにとっては、まったくの外国でした。

 最初のプランは、鉄道やバスで行けるところまで行って、被害を自分の目で見てみる、という漠然としたものでした。4月になって、JR東北本線花巻駅と大きな被害を受けている釜石を結ぶJR釜石線が動き始めたというニュースを知り、まず、釜石へは行けそうだと、思いました。町全体が壊滅したと言われている陸前高田市や大槌町、アメリカからの救援隊が入った大船渡市は、車がなければ行くことができないため、当初は予定に入れませんでした。

ネットや地縁で広がった取材範囲

 カルチュラル・ニュース4月号の印刷と発送・配達が終わった翌日、4月13日にロサンゼルスを出発することを決めました。14日に成田空港に到着、東京で1泊して、翌15日から20日まで、丸6日間を取材にあて、21日は東京で過ごし、22日にロサンゼルスに戻る日程を作りました。飛行機でいっきに、青森県三沢まで行き、そこから、バスと鉄道を使って南下し、東京に戻るというコースを決めました。青森県八戸の港湾関係者をロサンゼルスで紹介してもらったことが、八戸に近い三沢空港を選んだ理由です。

 このおおまかな日程を、Eメールで知り合いに知らせ、またリトル東京で出会った人に話してみたところ、次々と現地にいる人を紹介してもらうことができました。

 そして、当初は予定になかった陸前高田市や大槌町の避難所を訪れ、避難者と直接、話をすることができました。陸前高田市では第一中学の避難所にサンディエゴの高校からの応援バナーを届けることができ、そのようすは岩手日報の1面でカラー写真付きで大きく報じられました。

 この避難所訪問が実現できたのは、岩手県庁職員の長谷川英治さんのおかげでした。長谷川さんは約20年前にロサンゼルスに県庁の仕事で駐在していました。ロサンゼルスの岩手県人会の葛西祥子(かさい・さちこ)さんからの紹介でした。長谷川さんの車で、4月16、17、18日の、3日間、岩手県沿岸部を久慈市から釜石市まで見ることができました。

 長谷川さんには、また、岩手県庁のNPO・文化国際課を紹介してもらい、津波被害を受けた野田村の教育委員会で働いているニュージーランド人のジョージア・ロビンソンさんに会う手はずまでも、つけてもらいました。そのロビンソンさんの体験記は、2011年のカルチュラル・ニュース5月号に掲載しました。ジョージアさん自身が3月11日に、野田村役場2階から見た津波のようすと、その後の役場の職員たちの献身的な復旧作業、そしてその日本人の助け合う姿に、ジョージアさん自身が感動したという内容です。

 原発問題を抱える福島県の取材は、仙台から東京に帰る途中、福島市に1泊して地元の話を聞きました。会ったのは、福島大学准教授(アメリカ文学専門)の飯嶋良太さんでした。飯嶋さんは、京都に住むアメリカ文化に詳しい京都精華大学名誉教授、片桐ユズルさんの紹介でした。

 福島大学の飯嶋さんに会ったのは4月20日の夜でした。通常であれば、新学期が始まり忙しい時期だったのですが、原発事故で、福島大学の講義開始は5月9日になり、飯嶋さんは、時間があると言っていました。飯嶋さんの書いた放射能の危険についての体験談(英文)は、2011年のカルチュラル・ニュース5月号に掲載しました。

日系団体が集めた大きな義援金と3・11追悼式「ラブ・ツー・ニッポン」

 ロサンゼルス総領事館によると、2011年と2012年の2年間に、約3500件、総額376万ドルの義捐金が寄せられています。この中には、2011年11月に寄付の南カリフォルニア県人会協議会の募金約18万ドルが含まれています。

 また、南カリフォルニア日系商工会議所は、2011年6月までに募金で集めた総額53万ドルを米国ユニセフ経由で、日本ユニセフに寄付しました。南カリフォルニア日米協会では2011年9月までに集まった募金25万ドルを日本赤十字に直接、寄付しました。

 大船渡市の出身で、現在は、ロサンゼルスに住む鵜浦真紗子(うのうら・まさこ)さんは、2011年3月11日は、ちょうど気仙沼市にいて、津波に呑まれて、1昼夜、ビルの上で過ごし、救助されるという経験をしました。鵜浦さんが中心になり日米協会、日系商工会議所など、ロサンゼルスの日系団体がいっしょになった3・11追悼式「ラブ・ツー・ニッポン」が、2012年には3月11日、2013年には3月10日に、いずれも、ロサンゼルス警察本部内の講堂を使って行われています。わたしも、2012年の追悼式では、2月後半の三陸取材から帰ったばかりなので、発言者のひとりとして参加、近況報告をしました。

日本の報道ボランティアに期待

 カルチュラル・ニュースの東日本大震災取材は、これからも続けていきたいとわたしは考えています。次回は2013年11月を予定しています。現地に行く度に思うことは、「ここにはニュースがたくさんある」ということです。 日本中に、世界に知らせなければならないことがたくさん、あります。被災地からのニュース発信こそ、今もっとも必要なボランティア活動だと思います。日本の新聞社を退職したベテラン記者の活動に期待したいと思います。

映画 World War Z – 現代社会を痛烈に批判しながらも、現代社会の根幹システムは、人類を救うことを強調

タイトルからして荒唐無稽な大作映画かと、思ったが、気になったので封切2日目(6月23日)の日曜日の朝、グローブ・ショッピングセンターの映画館で見た。

タイトルからして、1898年に出版されたHGウエルズの『宇宙戦争』(The War of the World) を連想させたが、結末は、やはり『宇宙戦争』の結末と同じ病原菌を使っていた。

『宇宙戦争』は1938年に、アメリカでラジオ放送され、番組があまりにもよくできていたので、聴視者は、本物の戦争が起こったのかと思って大パニックが起こった。

大作映画は、宣伝が大がりに行われ、World War Zも、ロサンゼルスの街の広告塔(ビルボード)がたくさん使われていた。あまり、宣伝が大がりになると、内容が薄い映画と、つい先入観を持ってしまう。

地球上に突然、人間がゾンビー化する病気が発生する。ゾンビーと化した人間は、世界各地で、同時多発的に都市破壊を繰り返し、原爆までも、爆発させてしまう。このストーリーで、現代社会のありようと、不安をよく表している。

国連調査官のジェリー(ブラッド・ピット)は、朝鮮半島、エルサレムを調査して行くうちに、ゾンビーは健康な人間に襲いかかり、感染し、その人間をゾンビー化していくが、病気を持った人間には、襲いかからないことを発見する。

この比喩は、卓越している。現代社会では、勤勉に仕事をして、家を買い、子供にいい教育を与えようとしている、ふつうの人は、ゾンビーになってしまうぞ、という警告。

その中で、社会から落ちこぼれているひとが、大きな社会変化の中で、意外と生き延びていく、という皮肉な見方と、読み取れる。

映画は、社会批判をしながらも、ワクチンが人類を救うことや、国連、米軍の役割が重要であることなど、現代社会のシステムは、基本的には正しく機能していることを、繰り返し、伝えている。であるから、大手映画会社パラマウント映画が配給しているのだ。(東 繁春)

 

世界の人口

日本 1億3000万人 -> 9500万人 (2050)

韓国 5000万人 -> 4400万人

ドイツ 8300万人 -> 7000万人

フランス 6300万人 -> 6700万人

イギリス 6000万人 -> 7200万人

イタリア 6000万人 -> 5700万人

ロシア  1億4000万人 -> 1億1000万人

アメリカ合衆国 3億2000万人 ->4億人

中国  13億5000万人 ->14億人

とにかく、被災地に行ってみよう

ロサンゼルスから、カルチュラル・ニュース編集長・東 繁春 (2012年7月21日)

6月7日から11日まで、ロサンゼルスから5人、東京からの参加者4人、わたしを入れて10人で、ミニバスを貸しきって、4泊5日、津波で被災した三陸沿岸の町を見て回りました。

具体的な地名でいうと、仙台近郊の塩釜、松島、そして三陸沿岸の石巻、女川、雄勝、南三陸町、本吉、気仙沼、陸前高田、大船渡を、回りました。そして、グループが解散したあと、わたしひとりで、12日は陸前高田を再訪、13日は盛岡、14日には郡山市、福島市、そして東京と周り、14日の深夜便で、羽田空港を出発し、ロサンゼルスに戻りました。。

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石巻市の門脇小学校のあったところ (2012年6月8日、撮影者=カルチュラル・ニュース)

わたしの三陸体験は、昨年4月と今年3月、そして今回の6月と、3回になりました。この1年間の変化を自分の目で見ることができました。災害からの復旧は確実には進んでいました。気仙沼では、3月には、路上に横たわっていた船が、6月には撤去されていました。陸前高田では、ガレキは、整理されていました。ところどころに、ガレキを集めた小山が出現しています。石巻も、おなじような景色でした。

災害からの復旧は確実に進んでいるのですが、全体の被害があまりにも、大きいため、見た目には、ほとんど、何も変わっていないように、見えるのです。復興が進まないことへの行政への批判も聞かれますが、改善の余地はあるにしても、今回の大災害は、そう簡単に復旧できるものではないこと、をまず、頭に入れておかなければならないと思います。

東日本大震災は、阪神大震災と比べられることが多いのですが、これは、比べることが意味をなさないくらい、東日本のほうが、地域の広がりや程度がひどいという「基礎知識」を、多くのひとに持ってもらいたい、とわたしは考えています。

なぜ、そんなことが言えるのかと、いうと、わたしは、阪神大震災の3週間後に、神戸の中心地、三宮商店街から神戸市役所あたりまで、歩いて、被害のようすを、見ているからです。そのときの印象は、倒壊ビルのとなりに、まったく無傷のビルが建っていて、しっかりと作られたビルは、大地震でも耐えられるという、建築技術のレベルの高さでした。

しかし、東日本大震災では、わたしは、昨年4月16日に、陸前高田に入ったときは、ことばを失いました。目の前に広がる破壊された町並みは、これまで、経験したことのない光景でした。その光景を表現することばが、出てきませんでした。1万人近いひとが住んでいた町が、こつぜんと失われてしまう、この体験は、災害というよりも、わたしの母たちの世代が経験した空襲による町の喪失のほうが、体験として理解しやすいように、思います。

陸前高田の消えた町を見て、わたしは初めて、1945年8月6日の広島市の破壊のありさまを、リアリティを持って想像できるようになりました。

わたしは、かれこれ、もう、30年近く、メディアの仕事にたずさわっているのですが、経験を積むほど、確信を持つようになっていることは「メディアはすべてを伝えない」という事実です。

よく、「メディアは正しく伝えない」と言うひとがいますが、現代のメディアはウソを伝えることはできません。たくさんのテレビがあり、新聞があり、週刊誌があるのですから、1社がウソの情報を流しても、すぐに他の会社が、それを修正して行きます。

メディアはウソはつかない、と考えていいでしょう。しかし、メディアはすべてを、伝えていない、伝えることはできない、ということを、やはりこれも「基礎知識」として持っておいたほうが、いいのではないか、とわたしは考えています。

わたしは、このことをアメリカで説明するのに、グランド・キャニオンを例えに使います。グランド・キャニオンは壮大な景色です。写真や動画で、たくさん紹介されている光景です。しかし、実際にグランド・キャニオンの崖っぷちに立ったとき、それまで見た写真や動画では、説明することができない、壮大なふんいきの中にいる自分に気付きます。この例えは、アメリカ人には、たいへん、よく理解してもらうことができます。

日本だと、富士山の例えがわかりやすいでしょうか。わたしは、昨年9月に初めて、河口湖から富士山を見ました。そして、初めて富士山の雄大さ、霊験を感じました。わたしは、それまで、数限りなく、富士山の写真や動画を見てきました。新幹線や飛行機の窓からも、何回も富士山を見てきました。しかし、河口湖に立ってみた富士山というのは、わたしが、それまで、体験したことのない景色であり、体感でした。富士山を「霊峰」という意味が、そのときに理解できました。

東日本大震災は、1000年に一度の大津波が起こったと言われています。その事実からだけでも、ほんとうのことはメディアでは伝えることができない、と理解できると思います。メディアから来る情報は、受け手の体験の範囲内でしか理解することができません。そして、世界中で、1000年間も生きているひとは、だれひとりとして、いないのですから。

東日本大震災は、現地に行ってみなけば、本当のことは、理解できないのではないか。とにかく、現地を見てみようと考えたわたしは、昨年4月に、岩手県沿岸を3日間と、仙台市内、石巻市を歩きました。そして、このわたしの体験を、他のひとにも、伝えたいと考え、この6月のツアーを作りました。6月のツアーでは、ミニバスを借りて、ひとりでは、行くことができない女川町や南三陸町など、リアス式海岸の被災地を4泊5日かけて、見て周りました。

この6月の三陸ツアーで、よく、わかったことは、被災地のひとも、全国のひとにたいして被災地を見てほしい、と考えていることでした。

原発の再稼動問題や、九州地方での豪雨災害など、次々と大きなできごとが起こるなかで、東日本大震災が、全国版ニュースで取り上げられる回数が少なくなっています。ニュースに取り上げられることが少なくなると、問題がすでに解決してしまったかのような錯覚を多くのひとは受けます。

三陸の被災地に住むひとたちは、復興は何年もかかる大事業であり、現状は、被災直後からほとんど変わっていないことを、全国のひとに知ってもらいたのです。そのために、全国からの被災地への訪問を歓迎しています。

実際に現地に行ってみると、意外と簡単に現場に行くことができるので、驚きます。例えば、4000人近い死者・行方不明者を出した、東日本大震災の最大の被災地、石巻市へは、仙台からJR仙石線で行くことができます。途中で、JR線が切断されているため、代行バスに乗り換えますが、仙台から1時間半くらいで、石巻市の市街地に行くことができます。ですから、仙台からの日帰りは可能です。

また、2ヵ月くらい余裕をもっておけば、石巻市の中心街にある石巻グランドホテルの予約はできます。

JR石巻駅から、徒歩20分で、日和山まで上がることができます。標高56メートルの小さい山ですが、500年前に石巻城が建てられた場所だけあって、この山に登ると、石巻市内が見渡せます。日和山から海側の地区は、家屋がまったくない更地になっています。津波がそこに建っていた家屋をすべて呑みこんでしまったのです。

日和山の階段を海側に下りると、津波と同時に発生した火災で焼けた門脇小学校の校舎があるところに行き着きます。門脇小学校の生徒、約200人は、全員が日和山に駆け上がり、避難しました。

6月8日の午前11時ごろ、わたしたちが門脇小学校のあるところに行ったとき、ほかの団体バスも来ていました。

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石巻市の日和山。山の上は、公園になっていて石巻市を一望することができます。(2012年6月8日、撮影者=カルチュラル・ニュース)

岩手県と宮城県の県境にある気仙沼も、アクセスしやすい町です。東京・池袋駅前から夜行バスが出ていて、夜11時半に、池袋を出発して、朝6時にJR気仙沼駅前に到着します。新幹線ですと、東北新幹線一ノ関駅から、JR大船渡線やローカルバスで、いずれも約1時間で、気仙沼に着きます。わたしたちは、6月9日に、気仙沼の仮設商店街「南町紫市場」を昼食をとるために訪れました。偶然、入った「あさひ鮨」では、京都から初めて、気仙沼に来たという30代の女性と出会いました。ホテルの予約もなしに、気仙沼に来たと、言っていました。

気仙沼には、300人収容できる「ホテル観洋」というりっぱな宿泊施設もあります。一度、現地に行くと、被災地のことが身近に感じられるようになります。そして、被災地への支援ということも、まず、自分にできることから、やってみようと、具体的に考えられるようになるのだと思います。

(南三陸町にも、同じ会社が経営している「ホテル観洋」があります)

三陸沿岸は、歴史・文化のある地域で、古い日本の景色がまだ、たくさん残っています。三陸の被災地への訪問は、津波の被害を自分の目で見るということだけでなく、日本の歴史と文化を発見する旅にも、なります。

わたしは、今回の陸前高田の訪問で、生まれて初めて「湯治場」を体験しました。農作業や漁業の合間に、食材と寝具をもって、1週間、2週間と、簡素な宿泊所にこもり、温泉につかるところです。

あとで、わたしが知ったことは、温泉の多い日本では、九州にも「湯治場」があるのですが、温泉のでない瀬戸内海の町で育ったわたしにとっては、東北の「湯治場」に宿泊したことだけで、文化発見(カルチャーショック)でした。

(了)

21世紀版『裸の王様』 (1) 外交官をしている沖縄県庁の職員

沖縄県の知事公室長を務める又吉進さんが、22日、ワシントンに向かうため、沖縄を出発しました。ワシントンに行って、オスプレイ導入の反対を直接、アメリカ国務省や国防省の高官に説明します。えっえっ!これって、本当は駐米大使の藤崎さんが、やるべき、仕事ではないの。

外務省が、本来のやるべき仕事をやらないから、沖縄県が直接外交をやる時代なんですね。ちなみに、藤崎さんのツィッターによれば、21日はワシントンの大使館内で、若手館員と次の出張用の資料つくりをしているそうです。沖縄のこと、ひと言も、つぶやいていませんね。

外交官でないひとによって外交がくりひろげられていると思う、もうひとつの例は、アメリカ国務省の日本部長を辞めたケビン・メアさん。「沖縄はゆすりの名人」と言ったと共同通信が報じたことで、日本部長をクビになったひとですが、文芸春秋社からだした『決断できない日本』がけっこう売れています。大阪の民放のトークショー番組にも出て、自分の考えをはっきりしゃべっています。

メアさんの考えは、アメリカ政府の外交方針をしゃべっているのなのだと、思って聞いていると、メアさんは、外交官を辞めてからのほうが、外交影響力が強くなっていると、思います。『決断できない日本』が売れることで、アメリカの外交方針は、直接、日本の国民に届いていますね。これって、日本の外務省も、それから、アメリカの国務省も、そもそも、外交官という職業そのものが、時代遅れになっているという証拠ではないでしょうか。

(了)

ロサンゼルスのビル渡辺さんの人生

20120518 Bill Watanabe Awarded Medal
日本政府から叙勲されたビル渡辺さん (カルチュラル・ニュース・フォト)

ロサンゼルスに住む日本人には、「リトル東京サービス・センター」という名前を聞いたことがあるひとが多いのではないかと思います。もともとは、 1980年に、日本人高齢者向けの運転サービス(ロサンゼルスでは車がないと、どこへもでかけられません)と日本語=英語通訳サービスを行う事業所として 3人で発足しているのですが、現在は、自前のオフィスも持ち、総人数150人という、非営利事業としては、たいへん大きな組織になっています。

事業内容も、低所得者向けのアパート経営から骨髄移植のマッチングサービスまで、多岐にわたっています。現在進行中のビッグ・プロジェクトは、リトル東京に「武道館」という名称の総合体育館を建設するというもので、総事業費$24ミリオン(約20億円)という規模です。

このリトル東京サービス・センターを設立し、現在までセンター長を務めるビル・ワタナベさんが6月いっぱいで、退職することを祝って(アメリカで は、退職は、お祝いの対象となります)5月19日に、ロサンゼルス・ダウンタウンのボナベンチャー・ホテルで、お祝いの会が開かれ、約700人が参加しま した。

わたしが、ロサンゼルスに来たのが、1981年で、発足してまだ、1年だったリトル東京サービス・センターが、日米文化会館の中の、小さなオフォス だったことも覚えています。この30年間、ビルさんは、リトル東京で出会うと「ハイー、ヒガシサン。ゲンキ?」といつも声をかけてくれます。

以前から、どうやって、ビルさんは、3人だった「リトル東京サービス・センター」を150人もの大組織にしたのだろうかと思っていました。19日の 引退を祝う会では、ビルさんが4年前に書いた英文パンフ「ミラクル・イン・リトル・トウキョウ」(リトル東京の奇跡)が配布されていました。

この小冊子を読んで、わかったことは、資本金がゼロか、ほとんどない状態で起業し、大事業に育てたビジネスマンのような人生をビルさんは、歩んでい たのでした。非営利団体というと、ボランティア活動のほうばかり、考えてしまうのですが、非営利団体が存続するには、通常のビジネス以上に、ビジネス・セ ンスがいるということ、ビルさんの活動が教えてくれています。

(東 繁春、ロサンゼルスにて)