東日本大震災直後から被災地の取材続けるロサンゼルスの日系英字紙
(この文章は、季刊「海外日系人」2013年10月発行に寄稿したものです)
「カルチュラル・ニュース」 編集長・発行人東 繁春
小さな英字新聞が背負う大きな使命
「カルチュラル・ニュース」は1981年7月創刊の、ロサンゼルスで発行されている月刊の英字新聞です。ロサンゼルスで、体験することができる日本文化イベントを紹介しています。発行部数は5000部で、日系文化センターなど一部無料配布していますが、基本は有料の新聞です。
編集長と発行人を、わたしが兼務し、紙面製作はプロダクションに外注しており、実際のところ、わたし一人で作っている新聞です。小口の出資をしてくれた協力者が約30人いて、新聞発行会社の「カルチュラル・ニュース社」は、カリフォルニア州で株式会社の登録をしています。
カルチュラル・ニュースは小さな新聞です。この小さな新聞が、東日本大震災の実情をロサンゼルスの読者に知らせるために、震災直後の2011年4月に岩手、宮城、福島県に、2011年11月には福島県立医科大学で開かれた放射線の国際会議に、2012年2月後半に三陸海岸部と、現地への取材を3回行い、そして、ロサンゼルスのひとに直接、震災の大きさを体験してもらうためのツアーを、2012年6月と2013年4月に行っていることを、お知らせしたいと思います。
被災地に行ってこそ分かる真実
「被災地に出向いて、何か役に立つことをしたいと思いながら、どうしてよいのか、分からない。じゃまになるのではないか。力仕事もできなし、わずかな寄付をしているのだから、それで、よいのではないか」
これは、2012年6月に「カルチュラル・ニュース」が主催した「東北被災地体験ツアー」に参加する前のロサンゼルス在住の半田俊子さんの心配でした。
その半田俊子さんがツアーに参加したあとの感想文で、「悩みが杞憂であることが分かった」と書いているのです。「現地の人は1年以上(当時)たった今、全国の人に忘れられたくない、被災地を一人でも、多く訪問して、実際に見てほしい、話を聞いてほしい、という思いにあふれていた」と半田俊子さんは語っています。
2013年4月にはカルチュラル・ニュース主催の第2回目の「東北被災地体験ツアー」をやりました。このときの参加者、ロサンゼルスの日系三世のジュン・ヒビノさんは、「震災から2年が経っているので、現地に行っても震災の様子は見るものがないと、思っていたが、津波に被災した地域はほとんど何も建ってなく、驚いた」と、カルチュラル・ニュース2013年6月号への寄稿文に書いてくれました。
震災は人知の理解超える自然の驚異
東日本大震災は、グランドキャニオンに匹敵するくらいの自然現象だと、わたしは考えています。グランドキャニオンの壮大さは、いくら映像や写真でみても実感できません。現地に行ってみないことには、わからない大きな自然の驚異です。
わたしは、2011年4月16日に、陸前高田市に行ったのですが、津波が残したガレキの平原を見たときには、思考が止まってしまいました。ことばが出てこないのです。目の前に見えるものと頭の中の知識が、まったく結びつかず、知識の歯車が空回りしているのです。
女川町立病院へは2012年6月に行きました。女川の病院は海に面した高台に立っていました。わたしには、この高台が海面から50メートルくらいの高さにあるように感じられたのですが、実際は20メートルでした。この病院の一階まで津波が押し寄せたと説明されても、わたしは、すぐには理解することはできませんでした。理解を超える話なのです。
“LAコネクション”で情報発信
2011年3月11日に、東日本大震災が起こったとき、わたしは、ロサンゼルスの広島県人会の事務局長をやっていました。その県人会の会合のとき、県人会メンバーの息子がロサンゼルス・カウンティー(県に相当する行政組織)の消防士で、米国が派遣した国際救援隊メンバーとして大船渡市と釜石市に派遣されていることを知りました。
この消防士は名前を上原アツシさんといいますが、上原さんは、3月12日から19日まで、岩手県に派遣されていて、広島県人会では3月29日に、上原さんに県人会の会合に来てもらって被災地のようすを聞きました。上原さんは、被災地では一人も救助することができなく、大船渡では、逆に被災者から食料をもらったことが、忘れられないと話していました。
「カルチュラル・ニュース」はウエブ・サイトを持ち、また、Eメールのニュースレターも、1週間に2、3回は発信しているのですが、2011年3月当時、Eメールの交信の中で、突然、これから被災地に救援物資を持って、東京から出発するというメールが入ってきました。ロサンゼルスでキリスト教団体を主宰している稲葉寛夫さんからでした。
稲葉さんからは、南相馬市の病院に支援物資を届けた手記と写真が送られてきました。この手記は、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校の日本語学科の主任教授の広田昭子先生に英訳してもらいました。そしてJETプラグラムという英語教師派遣プログラムで仙台に2年間滞在したことのある日系三世から、仙台市内の東北学院大学の2年生の佐藤佐喜子さんが、英文のブログで3月12日から仙台のようすを伝えていることを教えてもらいました。
こうして、2011年4月のカルチュラル・ニュースは、発行は1週間遅れましたが、稲葉さんの南相馬市の体験記、佐藤さんの英文ブログ、そして消防士・上原さんの紹介記事を掲載しました。4月号のフロントページは、愛媛県新居浜市在住の文化人類学者、バーバラ伊藤さん(アメリカ人)による日本のおにぎり文化を解説する記事を掲載しました。ちょうどタイミングよく、時事通信社からは女川町で炊き出しをする人が、おにぎりをたくさん作っている写真を入手することができました。
注目されたローカル情報
カルチュラル・ニュースはロサンゼルスで体験することができる日本文化イベントの紹介が目的の新聞なのですが、わたしは、2011年3月ほど、ロサンゼルスの人が、そしてアメリカ中の人が日本に注目した時期はないと、判断し、東日本大震災のようすを伝えることが、ロサンゼルスの読者の日本への関心をさらに強くすると考えました。わたしが、発信するEメール・ニュースでは、ロサンゼルスで開催される募金活動の情報が増えていました。そして、このローカル情報は、大手紙ロサンゼルス・タイムズの記者やロサンゼルス地域通信社・シティー・ニューズ・サービスからは、重要な情報源であるから、注目しているという返信メールを受け取りました。
現場からの発信こそが報道の使命、震災1カ月後に現地取材を敢行
東日本大震災は、1940年代の戦争での東京大空襲や広島・長崎への原爆投下に匹敵する大惨事だと、わたしは、考えました。自分が生きているこの今に、起こっているできごとなので、報道の仕事にたずさわる者として、これは、自分の目で確かめなければならないと思いました。
カルチュラル・ニュースは、大組織ではないし、また潤沢な取材費があるわけではないので、ふつうの交通機関を使ってしか、現地に行くことができません。まず、復旧作業が進み、鉄道やバスなどが動きだすタイミングを待って、取材に行こうと考えました。被災地への救援活動をしている稲葉さんに、いっしょに連れて行ってもらえないか、と頼んでみたのですが、そういう余裕はないと、簡単に断られたことも、これは、自分で行くしかない、という気持ちになった理由でした。
広島県呉で生まれ育ったわたしは、東北地方はまったく未知の土地で、知り合いはいませんでした。ロサンゼルスには30年住んでいるので、カリフォルニア州内のことは、行ったことのない場所でも、ある程度の推測はできるのですが、東北は、わたしにとっては、まったくの外国でした。
最初のプランは、鉄道やバスで行けるところまで行って、被害を自分の目で見てみる、という漠然としたものでした。4月になって、JR東北本線花巻駅と大きな被害を受けている釜石を結ぶJR釜石線が動き始めたというニュースを知り、まず、釜石へは行けそうだと、思いました。町全体が壊滅したと言われている陸前高田市や大槌町、アメリカからの救援隊が入った大船渡市は、車がなければ行くことができないため、当初は予定に入れませんでした。
ネットや地縁で広がった取材範囲
カルチュラル・ニュース4月号の印刷と発送・配達が終わった翌日、4月13日にロサンゼルスを出発することを決めました。14日に成田空港に到着、東京で1泊して、翌15日から20日まで、丸6日間を取材にあて、21日は東京で過ごし、22日にロサンゼルスに戻る日程を作りました。飛行機でいっきに、青森県三沢まで行き、そこから、バスと鉄道を使って南下し、東京に戻るというコースを決めました。青森県八戸の港湾関係者をロサンゼルスで紹介してもらったことが、八戸に近い三沢空港を選んだ理由です。
このおおまかな日程を、Eメールで知り合いに知らせ、またリトル東京で出会った人に話してみたところ、次々と現地にいる人を紹介してもらうことができました。
そして、当初は予定になかった陸前高田市や大槌町の避難所を訪れ、避難者と直接、話をすることができました。陸前高田市では第一中学の避難所にサンディエゴの高校からの応援バナーを届けることができ、そのようすは岩手日報の1面でカラー写真付きで大きく報じられました。
この避難所訪問が実現できたのは、岩手県庁職員の長谷川英治さんのおかげでした。長谷川さんは約20年前にロサンゼルスに県庁の仕事で駐在していました。ロサンゼルスの岩手県人会の葛西祥子(かさい・さちこ)さんからの紹介でした。長谷川さんの車で、4月16、17、18日の、3日間、岩手県沿岸部を久慈市から釜石市まで見ることができました。
長谷川さんには、また、岩手県庁のNPO・文化国際課を紹介してもらい、津波被害を受けた野田村の教育委員会で働いているニュージーランド人のジョージア・ロビンソンさんに会う手はずまでも、つけてもらいました。そのロビンソンさんの体験記は、2011年のカルチュラル・ニュース5月号に掲載しました。ジョージアさん自身が3月11日に、野田村役場2階から見た津波のようすと、その後の役場の職員たちの献身的な復旧作業、そしてその日本人の助け合う姿に、ジョージアさん自身が感動したという内容です。
原発問題を抱える福島県の取材は、仙台から東京に帰る途中、福島市に1泊して地元の話を聞きました。会ったのは、福島大学准教授(アメリカ文学専門)の飯嶋良太さんでした。飯嶋さんは、京都に住むアメリカ文化に詳しい京都精華大学名誉教授、片桐ユズルさんの紹介でした。
福島大学の飯嶋さんに会ったのは4月20日の夜でした。通常であれば、新学期が始まり忙しい時期だったのですが、原発事故で、福島大学の講義開始は5月9日になり、飯嶋さんは、時間があると言っていました。飯嶋さんの書いた放射能の危険についての体験談(英文)は、2011年のカルチュラル・ニュース5月号に掲載しました。
日系団体が集めた大きな義援金と3・11追悼式「ラブ・ツー・ニッポン」
ロサンゼルス総領事館によると、2011年と2012年の2年間に、約3500件、総額376万ドルの義捐金が寄せられています。この中には、2011年11月に寄付の南カリフォルニア県人会協議会の募金約18万ドルが含まれています。
また、南カリフォルニア日系商工会議所は、2011年6月までに募金で集めた総額53万ドルを米国ユニセフ経由で、日本ユニセフに寄付しました。南カリフォルニア日米協会では2011年9月までに集まった募金25万ドルを日本赤十字に直接、寄付しました。
大船渡市の出身で、現在は、ロサンゼルスに住む鵜浦真紗子(うのうら・まさこ)さんは、2011年3月11日は、ちょうど気仙沼市にいて、津波に呑まれて、1昼夜、ビルの上で過ごし、救助されるという経験をしました。鵜浦さんが中心になり日米協会、日系商工会議所など、ロサンゼルスの日系団体がいっしょになった3・11追悼式「ラブ・ツー・ニッポン」が、2012年には3月11日、2013年には3月10日に、いずれも、ロサンゼルス警察本部内の講堂を使って行われています。わたしも、2012年の追悼式では、2月後半の三陸取材から帰ったばかりなので、発言者のひとりとして参加、近況報告をしました。
日本の報道ボランティアに期待
カルチュラル・ニュースの東日本大震災取材は、これからも続けていきたいとわたしは考えています。次回は2013年11月を予定しています。現地に行く度に思うことは、「ここにはニュースがたくさんある」ということです。 日本中に、世界に知らせなければならないことがたくさん、あります。被災地からのニュース発信こそ、今もっとも必要なボランティア活動だと思います。日本の新聞社を退職したベテラン記者の活動に期待したいと思います。